Jamaican Surf


昨日、1ヶ月ぶりに日本に来た。

 今回は、Jamaicaに2週間(Surfing70%+Reggae30%)、それからNYへ戻り、Dallas経由でNew MexicoのAlbuquerqueへ飛び、クルマでRoute 66を通りArizonaのFlagstaffで友達2人と合流。それからMonument ValleyやSedona、El Pasoなどのモーテルを毎日転々とし、New MexicoのWhite Sands国立公園でキャンプをした。1週間で約3000kmを走り、再びAlbuquerqueから一人NYへ戻った。


 まずJamaicaから。


 Jamaicaへ行こうと思ったのはかれこれ2年くらい前だと思う。きっかけは、坂口憲二の「この夏は忘れない」で、どうやらサーフィンが出来るらしいことを知ってから。決してずば抜けていい波があったわけではなかったが、ダラダラした波が俺は好きで、加えて楽園のようなカラフルな自然が俺を誘った。そしてその頃にはレゲエも聴いていたし、そういった独自の文化を持った国に惹かれた。今思うと「サーフィンだけではない」ということに少し負い目を感じていたのも事実かもしれないが、結局この旅ではそれがターニングポイントとなる(後述)。

 NY乗り継ぎで、恒例となった空港での一泊を経て、Jamaica第二の都市Montego Bayに着く。空港で現地在住のMiyokoさんとドライバーのDavidに迎えにきてもらい、初日は彼女がオーナーを務める
Jamrock INNに泊まり、翌日約3時間のドライブを経てKingstonへ行く。中心地のNew KingstonエリアでCollyと落ち合う。2mくらいあるような巨漢で、それまでに会ったJamaicanで一番無愛想だった。俺はてっきり勘違いしていたが、CollyはJutaタクシーのドライバーで、別にJamnesiaファミリーのメンバーでもなければサーファーでもなかった。クルマが大型のバンなので、どうやらJamnesiaのゲストを一手に引き受けてるらしい。そしてKingstonから東に約7mileのBull Bayという田舎町にJamnesiaはあった。HPを見てもらえばわかるとおり、一応オフィシャルな宿なのだがその実態はラスタ・サーファーとの共同生活に近い。 サーフィンをするとなれば、やはり一人では寂しい。そこで初めの一週間は就活を控えた後輩二人を誘って行った。そしてサーフィン後進国のJamaicaでサーフィンするとなれば、その道のパイオニアを訪ねるのがベストということで、Jamaica Surfing Associationの本部でもあるJamnesiaというサーファーのコミュニティとコンタクトを取り、訪ねることにした。ボスのBilly MysticはDVDにも出ている有名な人だし、そこではラスタ・サーファーが共同生活をしている村みたいなところであるということは知っていた。電話をすると、Collyという奴を迎えにやるからKingstonで待ち合わせようということになった。
 部屋は大部屋がUS$70(2~3parson)、一人部屋がUS$25。これらはバンガローと呼ばれ、他にもテントサイト(US$10)などはあるが、さすがにテントでの生活はきついと思う。ここには悪い奴はいないし、盗難などの心配はないと思うが連泊するなら居心地は悪いし雨も降る。本当に金を抑えたい人向け。食事は別料金で、その都度言えば作ってくれる。朝食がUS$3、夕食はUS$7。まあまぁうまいけど、歩いていける距離にレストランも弁当屋さんもあるのでそっちの方が得。写真の量(Large)でだいたいどこの店もUS$3。週末になるとストリートにジャークチキンやポークの屋台が出る。これは約200gでUS$2。レッドストライプは商店だとJM$120と日本とあまり変わらないが(約¥150)、バーでもJM$140。Jamaicaは貧しいのに物価が高い。それは資源が乏しく、輸入に頼っているからだという。だから人件費やサービス料で物価の違いが現れる。

 はじめは相場も分からずに、ぼったくられることもあるかもしれない。でも生活をするうちに、色んな店で買い物を重ねて、物価や習慣、その土地のルールが身についてくる。どこのビールが安いのか、どこの弁当がうまいのか、いつの波がいいのか。旅をするということは、死ぬまでこうして赤ん坊のまま学び続けることだ。少し成長して飽きてしまったら、また違う見知らぬ土地で赤ん坊に戻ろう。俺が彼や彼女の前でいつまでもガキでいられるのは、相手も変わり続けているからなんだろう。俺はこの旅で確信した。幸せでいつづけるためには、幸せなまま死ぬためには、旅をし続けなければならない。好みや、価値観、何が気持ちいいかってことなんていづれ変わってしまうんだって事を知ったら、友達でいつづけることの条件は、死ぬまで一緒にいつづけることの条件は、そのことを知っているかどうかっていうただ一つに尽きる。お互いがそのことを知って一緒にいるなら、心の移り変わりや、仕事を変えること、ファッションを変えること、住む場所を変えること、付き合う仲間を変えるってことも至極当然のことだから。

 初めの5日間は3人だったので大部屋に泊まる。ただ、バンガローも余計な期待はしない方がいい。ダニもゴキブリも出る。サーフィンをする為にある場所なので、田舎だから安全な反面、娯楽はあまりない。ただ、どこへ行ってもバーはあって、レゲエも町のどこかでかかっている。
 波は期待通りだった。正直実際に見るまで半信半疑だったが、まさに俺が見た波がそこにあった。これ、この為にここに来たんだ!というかんじ。頭前後でフェイスA。Jamnesiaから一番近いポイントはCopa。ビーチ沿いを歩いて約half mile。でも俺たちはラッキーだったのだと思う。俺が離れる数日間はフラットになってしまったから、スウェルが無ければ本当にno surf。板を持ってビーチ側の門を出ると番犬たちが着いてきて、海から上がるまで待っていてくれる。そして夕方にみんなで海に入っているとゴッドファーザーBillyが自慢のカメラを持って岸からみんなのライドを撮る。本当にこの日々は文字通りサーフィン三昧だった。ある日、Billyに観光を兼ねて島の北側に連れて行ってもらった。
Boston Bayへ行ってみたかったのだ。Long Bayなどのポイントを見ながら行って、Port Antonioという中規模の町まで行った。本当にこの辺は町の雰囲気が穏やかで自然も文句なし。残念ながら波は無く、結局帰りがけにMackaで入った。

 まさに「サーフィン合宿」の日々を終え、連れの2人は先にMontego Bayへと帰っていった。さあ、これからは一人旅だ。不安も大きかったが、開放感のほうが上回ったのが正直なところだった。あんなにいい波で仲間と一緒に入れたのは良かったし、彼らと同じように俺の方だって一人だったらここまで辿り着けたかどうかわからない。しかし一人でもここに来るつもりだった。一人で旅をすることは、不安で、寂しく、手持ち無沙汰な反面、とても気楽だ。不安も、楽しさも、全て自分に跳ね返ってくる。そして自分で全て決めなければならないから、いいことも悪いことも全て自分だけに返ってくる。

 君が射った矢は、一本残らず君の上に落ちてくる。
 君自身が敵なのだ。

こういう状態が俺はとても好きだ。苦しくとも、自由を感じられる。そこには他人の意思がない、自分を感じられる。ちょうど良かったのだ。彼らが帰ってか
ら波は良くならなかった。俺は一日中本を読み、自問自答を繰り返した。何かに感動しても、それを共有できる相手がいない。だから常に自問自答を繰り返す。加えて、俺が思うに旅とは経験ではなく、思考である。旅をしている間考えたこと全てが旅そのものなのだと思う。彼らとは思考を共有できなかった。けれども波を共有できたから、俺は満足だし、一緒に行けて良かった。
 彼らが帰った翌日、Jamnesiaでは隔週で行われるJamnesia Sessionという音楽イベントが開かれた。いつもはBillyがバンドを引き連れて演奏するのだが、彼はこの時大会のため、トリニダード・トバゴへ行っていた。いつも過ごしている中庭ステージとなり、昼間から知らない奴らが出入りして準備をしている。そして23時頃になって普段見ない顔がオシャレをして集まってきた。俺の部屋の前まで客がいっぱい。ホームパーティーの様でもあって、とても暖かいイベントだった。Fleaは終始ドラムで、Fayatiはラップを披露した。Kingstonの最新のダンスホールではないかもしれないけど、初めてLiveで見る本場のReggaeには衝撃を受けた。
(sorry for noisy sound)



だから、幸福になるために
君がやったことはけっして無駄にならない


 幸福について考える旅だった。旅に5冊の本を持っていったが、この時はアランの「幸福論」を読んでいた。彼が生きていればいい友達になれただろうと思う。彼は嘘を否定しないし、占いや神を断固拒否し、欲望を肯定する。アランはこういう言い方をした。

幸福はやはりすべて創り出さねば
ならなぬことを忘れてはならない。
自分の心の中に財産を持っていない者は
退屈によって狙われ、
すぐにとらえられてしまう。

 JamnesiaはBillyを長とするWilmotファミリーを中心として、Flea、Fayati、"Mad"Slaterの3人の従業員(と呼んでいいものか・・・)と一緒に暮らしている。ママがマネージャーで、宿の管理を仕切っている。そして近所のキッズが自由に出入りしてサーフィンやらSK8をしている。Jamaicaにはまだサーフショップもましてメーカーもないからボードはなかなか手に入らない。そこで海外へしょっちゅう行くBillyや長男のIcahといった協会の幹部、シーンのリーダーたちがJamnesiaを拠点にキッズにボードを貸してサーフィンを広めているのである。近所の仲間もしょっちゅう出入りするし、サーファーじゃなくてもレゲエを通してJamnesiaとつながる奴らがいる。そして俺のような海外からたまにやってくる旅人、それを連れてくるColly。たまに若い奴らを呼んでみんなでホームパーティーをして、朝まで音楽を楽しむ。
 こんなんだ。俺がやりたいのは。いつも、例えば海が目の前にあって、ファミリーがいて、友達がいて、未来を担う子供たちがたくさんいる。そして世界中から入れ替わり立ちかわり旅人が訪ねてきて、自分たちの音楽があり、インターネットで常に世界中ともつながっている。テクノロジーに頼りすぎず、作れるものは自分たちで作り、出来ることは自分たちでする。これ以上の幸せがあるだろうか。彼らがとても羨ましく思えた。


 ある時、ラスタファリアンのBillyに尋ねたことがあった。「Ethiopiaに行ってみたいと思いますか?」と。ラスタにとってはAfricaのEthiopiaが聖地だからだ。彼は「No man」と言った。

俺はTokyoにも行った事があるし、Americaもいい国だ。もちろんJamaicaも最高だ。でも、どこにいたって変わらないんだよ。世界はひとつなんだ。だからEthiopiaに行くことが目的ではないんだ。

彼は「one world」と言った。Jamaicanは他にも「one love」だとか「no problem」とかよく言う。これがとても適当な感じがして嫌に感じたりもしたが、旅を通して段々とこの感覚が分かるような気がした。
 やがて、海はフラットになった。しかし波が無いことを嘆いているのなんて俺くらいなもので、誰も「退屈だ」なんて口にはしない。「波がないよ、いつスウェルは来るの?」とSlaterに尋ねても「さあね、明日かもしれないし、来週かもしれない。心配すんなよ、no problem, man.」と言う。彼らは波が無くても嘆かない。ちゃんと知っている。人間の都合で自然は動かないことを。ならば自然の都合にたまに俺たちが肖ってサーフィンできればいいんじゃない?くらいのバイブスだ。みんなこんなかんじだから、波のことばかり気にしている俺のほうが恥ずかしくなってしまった。あんなにいい波で何日もサーフィンしてても、少し経つと、次の波は?って思ってる。
 懲りないよねー。結局満たされるものなんかじゃないんだ。だから固執しちゃいけない。サーフィンだけが目的ならJamaicaはやめた方がいいってことかもね。でも思うんだけど、純粋にサーフィンだけが目的ならサーファーたちはここまで世界に出ていないんじゃないかな。「違う場所の波」を求めるのと同時に、それを取り巻くローカルのカルチャー、環境すべてに異質のものを求めるバイタリティがサーフトリッパーには多かれ少なかれ備わっているから、サーファーは旅をするんじゃないだろうか。
そして波が無いときはSK8だ



ここで俺はある約束を思い出した。
日本にいるときの誰かさんとの口約束だ。

「ホワイトサンズでキャンプしようか」

 彼女はその時カリフォルニアにいた。友達と2人でCicagoからAmtrakで旅していたのである。実を言うと俺はこの後メキシコにでも行ければいいなと思っていたのだが、いかんせん航空券と日程の折り合いがつかない。そこで俺は彼女と連絡を取り、ArizonaのFlagstaffという町で落ち合うことにしたのである。色々悩んだ末に俺はサーフボードをJamnesiaにドネーションして次の旅の準備を始めることにした。Billyは驚いていたけど、俺はあの板を2年前にUS$400で買った。USのくそキャリアにかかればこれからの移動の間に俺のボード代は輸送量で帰国前に吹っ飛んでしまうのだ。こちらとしてもタイミングが良かったわけだ。もっとストイックな人々なんていっぱいいるのに、こんなところでくだらん意地を持つのはやめた。それに、カバンをひとつ減らして旅立つときに俺は思ったんだ。こんなに大切なものを手放せる俺はなんて幸せなんだって。

 そして俺はKingstonに行こうと思った。避けては通れないステージだとどこかで思っていた。危険を冒すことが目的ではない。しかし、当たらずとも遠からず。旅人は、より不便な地で生活することで、ある意味過去の時代、日本では失われた時代の生活水準に戻り、ノスタルジーに浸るのかとも考えたことがあったが、このとき別のことを考えた。すなわち、旅とは「あったかもしれない自分」を生きる、体験しているのだと。環境が違ったらこうなっていたかもしれない、というような姿の自分、そして実はそれが本来の自分なのかもしれないし、違うかもしれない。そいうやって自分を探すことが旅なのだと。KingstonまではFayatiとMrs. Maggyが買い物のついでに送ってくれた。「体に気をつけてね。サーフボードをありがとう。」どこへ行っても母の包容力は一緒だ。

 そしてついに、悪名高き首都Kingstonへ。少なくなった荷物を持ちながら、とりあえず地図を見ながら歩いて日本人宿Rablishを探す。久々に俺の旅だ。全て自分で決めて、迷いながら自分の足で進んでいくことで俺はやっとその実感を掴んでいった。その日の宿も決まらず、不安が高まる一方で、急激に何かが満たされていった。
 歩いていると、路地裏に入ってしまい、看板も無いので迷ったかなと思っていると、高い塀の大きな鉄の門が開き、中からJamaicanが出てきて「ヘイ、Japanese! もしかしてここを探してる?」その通りだぜメーン。Kingstonはセキュリティーを雇えるくらいにならないと日本人は住めない。だから宿の看板なんかも表に出せないのだ。Montego Bayもそうだが、家の中でも各ドアを出入りするごとに毎回鍵を開け閉めしなければならない。そんな治安だが、Jamaicanはプライドが高いのかrespectという概念がとても重要視される。たかりなども意外にしつこくなく、拳を出して"no thank you, but respect"とやれば体外すんなりあきらめる。Baliがどんだけがめついか思い知らされた。あの島で買い物に慣れることはいいことだ。一泊しかしていない俺が独断でこんなことを言うのは凄く身勝手なのかもしれないが、正直に言うとRablishは居心地が悪かった。いや、Rablishが悪いというのではなく、日本人ゲストハウス特有の雰囲気がその時とても嫌だった。それまでJamaicanに一人囲まれて生活していた俺は久々の日本人を見て少々テンションが高かった。そしたら、Jamaicaでも日本人同士で生活してきた彼らは「え、こいつ何Jamaicanノリ?」みたいな雰囲気になった。日本人はやはりお互いにすごい気を遣い合うし、それも繊細さゆえなのだけどやはり寝床を共にするドミトリー式のゲストハウスでは気を遣いすぎると居心地が悪くなる。俺は今回、Jamnesiaのようにお互いが自由で少しわがままで、それとなく空気を読んで暗黙のルールを守りあうような方がずっと好きだった。空気が読めない奴は俺は好かない。ただし日本人に限る。それくらい日本人は繊細だと思う。でも一方で日本人はこういう人間関係に関して不器用なんだろうな。でも暗黙のルールで秩序が保たれるってことは倫理観が高いってことだ。ただ、この日この旅で初めてシャンプーを使った。

 あとJamaicaはとてもカラフルだ。
 
みんなラスタ・カラーが大好きだし、建物もピンクや黄色のものが多い。写真のレイカーズカラーの建物は高校。こんなんだったら勉強もきっと楽しいよね!
 KingstonはL.Aを思い出す。街の無秩序感というか、単に「危ないニオイ」というのではなく、街のつくりが雑というか、まぁ良くも悪くもだだっ広いカオスなのである。だが、L.Aのときのような少し気分が良くなるような出来事もしばしば。バスターミナルまで荷物を背負って歩いていると隣を歩いていたオバサンが、「あんたどっから来たの?」「Jamaica人みたいな(肌の)色ね」で一緒に途中まで歩いたり。こういうのもJamaicanの人柄から来るものなんだろうな。失礼なことを言うかもしれないが、幸いここにも「人間」がいた。L.Aのときも考えていたことだが、俺は危険なエリアに踏み込むたびに信じていた。その危険は人間が生み出すものなのだから、人間の情もあるのだと。そんな期待は未だに裏切られていない。ここまで海外旅行で俺が危ない目に遭っていないのは、信頼と疑いのバランスが絶妙なのではないかと我ながら思っている。疑いは身を守り、信頼は旅の尊厳を守る。そしてその「情」こそ、人間が(ある程度)普遍的に持ちうる倫理観なのだと思った。

 そして、夜はついにダンス(イベント)へ。Kingstonでは毎晩どこかでダンスが行われていて、それは例えば閉店後のショッピングモールであったり、ストリートであったり、駐車場、空き地。とにかく野外だろうがどこでもサウンドシステムを持って夜の街を爆音の渦に巻き込む。それでもセキュリティーはちゃんとしているし、スポンサーもちゃんとついている。中では売り子が歩き回っていて、タバコやリズラ、ガンジャを束(ジョイントじゃなくステムの)で持ち歩いている。建物の壁をスクリーンにして、ビデオマンと呼ばれるスタッフがカメラでオシャレな奴を撮って歩いてリアルタイムで映し出す。キラーチューンがかかればガンフィンガー(たまに本物のガンマンもいる)やライターが掲げられ、サウンドマンはサンプラー駆使する。ゲットーでもすごいオシャレをしてくるし、俺ももう少しめかしこんで行けばよかった。とにかくJamaicaはクラブミュージックに関しては間違いなく先進国だし、夜遊びに本気だ。3時4時くらいからはみんなで別の場所でやってるダンスに梯子して踊る。日本で言えばクラブ遊びなんだろうけど、クラブより野外の方がさかんだ。それは住宅事情とか天候とか色々あるんだろうけど、とにかくこれ以上ないってくらいの楽しみ方をする。思えば2年前、俺は大学でこんなイベントをやりたかったんだよなあ。
 
 翌日、ドライバーの送迎を断り、歩いてNew Kingstonのバスターミナルまで行き、Montego Bayへ帰る。Davidがバスの到着を待っていてくれた。翌日はMontego Bayで一日ショッピングを楽しみ(Arizonaへ持って行くプレゼントもたくさん買った)、ついにJamaicaを後にする。もう過度の防犯意識に気疲れすることもなくなることが一番うれしかった。その次は服の清潔を保つのに苦労しなくていいこと。

 USのイミグレーションで初めて引っかかった。その理由はなんと「オマエ2週間もいるのにこの荷物は少なすぎるだろう」というもの。荷物が少なくてもフットワークが重くなることもあるのだ。幸い次にまわされた入国管理官がJamaica系移民の人で、話が弾み無事解放。空港で夜を明かしいざNYへ。





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