かけがえのないもの



ふとした瞬間にいいアイデアはやってくる。通り雨のごとく。怠慢な俺たちはすぐに忘れてしまう。そこから何か生まれるかもしれない、俺の小さなガラクタの山。Twitterはそういう使い方をしている。

 我々は「かけがえのないもの」を尊びながら、我々の社会と言うものはそれをなくす事で発展し続ける。そしてこれからもそうやって自然と未来を食いつぶして正しい現在を手に入れていく。システム化し、予測不能な自然、未来を全て予測できるようにしようとし、支配する。人の個性という不確実性を排除し、「かけがえのない人」をビジネスから排除する(労働疎外)。
 真理である。 しかし俺はこういうものを危険思想と呼ぶ。なぜなら、このような真理を知ってしまうことは、「かけがえのあるもの」を作らない、すなわち全て偶然と自然の力に任せてしまうことを肯定するからである。 養老先生の仰る事はとても納得できたし、「予測不能なことがあるから人生は面白い」というのはごもっともである。しかし、だからこそ我々がすべきことはやはり未来と自然を食いつぶし、全てを予測し、因果を追求し、科学することだと思う。そして可能な限りを追求した先に、偶然にも予測不能な自体が起きた時に、我々は「ああ、やられたな」と苦笑いしながらまた自然に挑む。それが人間と自然の宿命の対決であり、その中にこそ人間の幸せはあるのではないだろうか。


予定されてしまった未来は現在の一部である


 時間についての考察で養老猛司と茂木健一郎が同じことを書いていた。どうやら出所はミヒャエル・エンデのようだ。過去を否定することで、それまでの自分を抹殺することで人は変化し成長し続ける、と俺は前に書いたが、養老先生は「過去を否定することは現在を否定することだ。なぜなら現在は必ず過去の上に成り立っているから。」と言う。これは単に言葉の使い方の問題であって、俺の考えと変わらない。俺はその都度考えを変え続ける、つまり考え続けることを「過去を否定する」と言い、彼はもっと広い意味で、「その否定の連続を肯定する」ということを言っているのだ。俺は何かを否定したり、間違いを訂正したりして何が正しいかということを探し続けることを肯定しているからこそ一時的な否定の連続なのである。


 また、老子や荘子、仏教、そしてラスタやナヴァホもそうなのだろうが、「自然に委ねる」思想をまた少し理解した。彼らは予測できないどんな事態にも覚悟があり、勇気があるのだ。臆病な俺や、科学の社会は見えないもの、自然の予測不能な力をあまりに恐れる。だから原因を探り、そこから未来を予測して現在にしようとする。ただ、俺から言わせると、俺はそうやって全ての事象に責任を持ち、自由になろうとしているんだ。みんな何千年もそうしてきただろう?悪あがきだろうがなんだろうが、そうやって見えない大きな力に挑戦し続けてきたんだよ。そうやって自然や未来を食いつぶして、最後に残ったものが、たぶん俺が勝ち取れなかった「予測不能」という人生のエッセンスとなって最高のスパイスを効かすんだろう。
 アメリカでの日記に少し書いたが、俺は大自然と大都会が好きだ。この本を読んだら、それは現時点での人間の最高の力の体現と、原生の自然の力の両極端を感じるからなのかな、と思った。そしてサーフィンでは自然を少しでも直接的に支配することにこの上ない快感を覚える。そしてたまに、「やはり敵わなかった」と嘆く。同時に俺は、先があること、未来があること、決まっていないこと、予想できないこと、見えないものが先にあることが分かり、安心する。わがままなもんだ。

かけがえのないもの (新潮文庫)

 北欧の福祉国家では「子供は社会の財産」と考えるという。これからの社会を作るのは子供たちだ。だから自分の子供だけでなくすべての子供を、社会みんなで一人ひとりの子供を育てる。素晴らしい考えだと思う。

なぜなら、子どもと言うのは何も持っていないからです。知識もない、経験もない、お金もない、力もない、体力もない。何もない。それでは子どもが持っている財産とは何か。それこそが、一切何も決まっていない未来、漠然とした未来なのです。

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