僕たちが大人になれない12の理由

タイトルは昔読んだ本から。


思い出話。


 1年生の5月、大学で出来た友達に連れられて、色んな大学の人たちが集まってビジネスをやろう、みたいな集まりに行った。そこではみんな何故かスーツを着ていて、名刺を持っていた。彼らいわく、この集まりは「起業志向」なんだと言った。ああ、自分でビジネスをやることか、それなら俺も混ぜてよ、って感じで連絡を取り合うことにした。次の日、名刺を作った。しかし、何かインパクトがあって、カッコいい肩書きが欲しいと思った。それならpresidentだろう、ということで代表の肩書きにした。しかし、何の代表だ?俺がリーダーならば、チームがなきゃいけない。そこで「金字党」という団体をその場で立ち上げた。この金字党という名前は実は高校のときに考えていた。確か、その頃から自分のチームを作りたくて、ラッパ我リヤとかの「走馬党エンタテイメント」に倣って命名したんだと思う。その証拠に、高校のラグビー部の部室にいくつかダギングしてあると思う。名刺の名前の下には「traveling」と入れた。これは「ティファニーで朝食を」の主人公を真似た俺なりのアピールだった。
 そしてその後、高校の奴らを集めてメンバーにして、実質的にチームにした。対外的には「ビジネス団体」と表明して、ビジネスに興味がある奴が集まるようにした。その頃から団体の目的も明確に整理して、「団体理念」も書き上げて公表した。そしてそれに釣られて、思惑通り「起業志向」の学生が集まってきた。俺たちは面白がって面接を行った。相方はハンバーガー片手に面接をしていた。悪ふざけもいいとこだったな。でも集まった奴らは、メークマネーしたいって言う割には、正直ダサい奴らばっかだった。おどおどして、胸を張って夢も語れないような奴らだった。俺がそこから育てるべきだったんだが、出自が違っても活きのいい奴と俺は一緒にやりたかった。例え音楽を知らなくても、ヒップホップ的な精神がわかる奴とやりたかった。まだ伝えることに責任感がなかったのだと思う。


 俺は金字党っていうインパクトのあるチーム名を使って、大学のエンタテイメントシーンに変革を起こしたかった。そして1年生のときにPurple Hazeっていうイベントを立ち上げた。1年後にはPurple Hazeと金字党って名前は大学じゃみんな知っていた。2回目のPurple Hazeでは同年代の大型ラッパー3人、言わずと知れたバラガキと今はメジャーへ行ったばかりのONIGASHIMA(現GASHIMA)、そして今でもhustlingしてるであろうT-YAにステージをやってもらった。ONIGASHIMAはL.Aにいた奴で、バラガキの紹介で知り合ってから意気投合した。多分バラガキは俺やバラガキ自身が持っていた音楽、ヒップホップに関する問題意識を共有できる少ない人物として彼を紹介してくれた。そんな言い方をしていた気がする。当時ONIGASHIMAはメジャー契約をしたばかりで、バラガキとは方向がかなり変わっていった頃だった。俺のイベントではバラガキがGASHIMAをdisったとかどうとかなってたが(まぁ所詮レーベル側の過剰反応だろう)、俺は二人ともリスペクトしていた。だからあの盛大なパーティーのステージに立ってもらったんだ。
 Purple Hazeは楽しかった。俺は大学のキャンパスに初めて足を踏み入れたとき、なんて色んな活動をしている奴らが多いんだってとても感心した。だから、自分のパーティーでは、カッコいい芸があれば何でもやってやろうという感じだった。俺は影響されなかったが、前衛的なファッションを追求する団体があればファッションショーをやってもらった。友達に漫才をやるやつらがいたから、MCついでにコントをやってもらった。俺はと言うと、オーバーグランドで聴かれるべきだと思った曲がいっぱいあったから、DJとしてそれらをスピットした。「耳ヲ貸スベキ」ってやつだ。あとはイベントのオーガナイズ全般を通してビジネスの勉強をさせてもらった。こういうニオイが嫌いな奴は多かった。一部で俺は金儲けに走っていると思われていた。今更どうこう言うつもりもないが、だってそれなりの価値をそれなりの人数に提供して、「カスタマー」からは何度もアンコールがかかったんだからね、まぁしいて言うならば俺が求めていたのは「継続性」ってやつだ。
ただ、そんなにビジネスしたかったのも、俺だけだったらしい。仲間はもともと音楽好き、パーティー好きで俺の話に乗っかってきた奴らだったから、プロモーションとか交渉ごととかはほとんど俺一人でやるようになっていたし、みんなそんなにキッチリやることに疑問を持っていた。


 しばらくして、おれ自身もうイベントをやるのがしんどくなった。もっと学校で勉強する時間が欲しかったし、Purple Hazeのカスタマーの半分を占めた同期の仲間たちはキャンパスが移動したから集めにくくなるだろうなと思ったからだ。3年生から使う駿河台キャンパスってのはそれまでの和泉キャンパスほど日々のコミュニケーションに適していなかった。思ったとおり、3年生になると学校にはもう「大人数でなんか楽しいことしようぜ」って雰囲気はなくなっていた。そこから俺も学業にシフトするようになる。




 大学時代で学んだことは、たくさんあるが、一言にするなら、独りよがりになってはいけないということだ。カネを稼ぐということは、誰かに必要とされていることの証明だ。どんなに素晴らしいアイデアがあっても、他人に理解を求めようとしなければ、この世で生きていることにはならない。理解されたかどうかはまた別の話だ。どんなにその声が届かなくても、伝えることをあきらめてはいけない。表現することをやめてはいけない。
 排他的な集団や価値観は嫌いじゃない。俺はそういうものから学んできた。分かりやすい例が音楽だ。ヒップホップはポップカルチャーをdisrespectすることで、自分たちの文化を守ってきた。自ら進んで物を売りに行くようなスタイルを疎み、向こうから来たリスナーに更に質問を投げかける。「これでもついてくるのか?」と。自ら考えることをやめ、受動的に音楽に接するものは置いていかれる。そこではリスナーもハイリスクを負わされる。だからこそハイリターンがある。問題意識を常に持ち、オリジナルな意見を持っていなければその娯楽を得ることはできない。言わば競争の娯楽だ。
しかし、だ。そんなに自分の価値を追求するのならば、それを誰に伝えたいか、誰と共有したいか。理解を求めない人間を俺は信用しない。そんなものは人間じゃない。人は人としか生きられないし、幸せは人と共有することでしか生まれないからだ。
 サーファーが排他的なのも、自分たちにとって素晴らしい楽園のような世界を守るためだ。だから必ずそこに矛盾が生じる。なぜなら、遅かれ早かれ、彼らはその素晴らしさを外部に伝えなければならないからだ。
 同じく、大学に入ってからサーフィンも始めた。Perfect Beachへの加入だ。素晴らしい生活だった。みんなで千葉に家を借りて、週末にクルマで夜中にドライブして海に向かう。連休なんかは泊まりこんでみんなで鍋とかして、朝から海に入る。他の大学生と全く違う遊び方をしていたことも、自信を高めた。先輩たちは大学ではサーフィンしか知らないような人たちで、学校で会うことなんかないし、街で遊ぶこともなかった。海で会う仲間だった。先輩に誘われて、埼玉のショップのチーム、スタンダードにも出入りするようになった。だんだんとローカルの知り合いも増えていった。一回りも年上の人たちばかりで、その中にはサーフィンを生活の中心に据えている人たちがたくさんいた。そして海外にも行くようになった。バリをはじめ、メキシコとジャマイカに、サーフトリップへ行った。1年くらい経って、俺がチームを仕切るようになった。


 その間色々あったが、結局俺は4年生でPBを抜けた。Jamaicaから帰国したくらいのタイミングだった。俺がサーフィンをやめた事でPBは水面下で揉めていた。まぁ、俺は辞めたつもりなんてなかったが、保守的なサーファーたちは、海から離れたらもうサーフィンを辞めたと見なす。新しい家を持つために、70万くらいのカネをチームに貯めたが、それでも俺が抜けようとすると逆賊扱いだった。ただ、俺はもうそんなことはどうでも良かった。自分の中でやっとサーフィンを手にしたのだ。


 イベントで「広く告げる」ことを学んだこともあったが、ゼミの仲間やなんかからも、コミュニケーションスタイルとして、「愛想よく」人に接することを学んだ。結局文章を公開するのも、誰かに、もしくは全ての人間に、理解してもらいたいからだ。こうして俺は世界中に愛想を振りまくようになった。伝えたかったのだ。見てもらいたかったのだ。
 やはりそういうスタンスを学んでからは、格段に世界が広がった。知り合いの数も瞬く間に増えた。俺がこんなに態度を変えるだけで世界はこんなにも俺を見てくれるのか、と知った。まぁ、それだけじゃ問題は解決しないし、そうすることで新たな問題も出てくるが、とにかく、俺にとっては世界に接する態度の重要性がわかっただけでこの上ない大きな収穫となった。ビジネスも、程度の差こそあれ、こういうことが必要だからだ。寛容であることが全てではない。しかし無駄な意地を張らず、出来る限りの部分で寛容になることは、最も重要な部分で意地を張るために必要なことだった。それは、その意地を通すための言わば駆け引きのようなものだった。おかげで、俺はまた新しい素晴らしい友達にめぐり合うことが出来た。


 自分に酔えるから、なんとかやってこれた。大学では、友達が多かった。平日の午後にロビーや、喫煙所を歩いていれば、あっちこっちから声がかかった。それくらいのものを築いたのは確かだったが、たまに俺はどうしようもない孤独感に襲われた。旅人の宿命だ。
 こんなこと言って、内心満腹になってきてやしないか?とびくびくしていた。いい理由を見つけたな、と。言葉を長く綴っていくと、つまり、自分との対話を続けていくと、どんどん表面がはがれ、暗さがにじみ出てくる。はじめのほうはどっからか借りてきたような、と言ってしまえば何でもそうなのだが、受け売りの文章面でスタイリッシュに自分や過去を美化する。だが次第に言葉は暗くなる。その奥底にある恐れや嫉妬、孤独が、上澄みがとれた膿のように滲んでくるんだ。


 生き急いでいたのだと思う。全うな大学生活を送り、他と比べたら限りなく質は高かったが、どうしても枠を超えれない。どっかのポイントで、逸脱してみたかった。それはいつでも変わらないと思う。


 幸いなことは、例えば10年後でも酒を酌み交わしたいと思える仲間が何人かできたことだ。アランは「自分で乗る船を作る仕事をしている者は最も幸せだ」と言った。閉じこもろうとするわけではないが、語りすぎたかもな。俺が背負った負債に気づいたのだ。ここらへんで少し言葉を絞ってみようかと思った。丸くなったと言われることがあるが、手放しに喜べなかった。あいつは、「だって、先輩も不良じゃないですか」と言った。そんな言葉のほうが俺はうれしかった。


 老いは、正しさだ。若さは、無知だ。老いるほどに、もう行くべき場所はなくなっていく。若いほどに、まだたくさん行かなければならない場所がある。知るべきことが多い俺はまだまだ大人になれなかった。


つづく

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